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8ミリカメラの達人 神山 隆彦

躍動の中学・高校時代

掲載日:2006年7月27日 テーマ:写真 , 留学 , アメリカ

写真と英語の中学時代

写真と英語の中学時代

1978年、小学校を卒業して私は中学生となった。
中学に入ってまず始めたのが部活動。さすがに8ミリ映画のクラブはなかったが、写真部があった。映画は1コマ1コマが写真の連続なので、写真を一から学んでみたいと思った。
写真部に入部して写真の撮り方、構図、仕組み、自分で行う現像などを一通り学んだ。中学1年、2年は普通の写真撮影に熱中したが、3年生になると上級生の立場から勝手に「写真部の活動の一環」と称して8ミリ映画を始めた。秋の文化祭では修学旅行のもようを収めた記録映画を上映した。

もう1つ中学時代から熱中したものに英語があった。
きっかけは英語に長けていた父と当時航空会社に就職したばかりの姉の影響だった。また自分自身も他の学問に比べて将来一番使える学問であると思い興味がわいた。
学校の勉強とは関係なく、英語の歌詞を翻訳したり、海外のラジオ放送を聴いたり、気がつくと「英語漬け」な環境になっていた。
数学などは目も当てられない成績だったが、英語だけは常にいい成績を取っていた。

プチ不良の高校時代

プチ不良の高校時代

中学時代は写真や8ミリ映画などで遊びほうけていたが、なんとか進学校と言われる高校に進むことはできた。
その高校には「映画研究部」なる8ミリ映画で作品を作るクラブがあり、大いに胸をふくらませて入部したものの、部員全員知識とやる気のない輩ばかりで意気消沈してしまった。
このころから繁華街を徘徊したり、パチンコを覚えたり、バイクに乗ったりと「プチ不良」きどりをしていた。

しかし自分なりに「何かを変えなければ……」という気持ちから、ある日「そうだアメリカに行こう」と思い立った。(当時自分の中でアメリカはあこがれの新天地であった)
そしてある留学機関の存在を知り、選抜試験を受けた。
全国から志願者を募り、試験に合格した者だけ1年間アメリカにホームステイさせてくれるというものであった。
親は「どうせ合格しないだろう」とタカをくくっていたが、どういうわけか合格してしまった。

今から思うとこのアメリカ行きが今後の人生を変えることとなった。

アメリカでの修行

アメリカでの修行

1982年9月、私はカリフォルニア州立の高校生となった。
アメリカ人の家庭に住み、英語で生活し、ハイスクールで授業を受け、宿題をこなし、自動車の運転を覚え、ガールフレンドができ、アメリカ流の人づきあいを覚え、生活は180度変わっていった。
今までの生活から離れ、全く違う国、文化、価値観の中で私はここで自分の国や今までの生活を冷静に客観的に見ることができた。そして物事の本質を見つめられるようになった。
当時1ドルが280円と現在の倍以上のレートだったため、全ての物が高価で極度の貧乏生活を強いられた。常に空腹であった。そのおかげで食べ物のありがたさが身にしみてわかり、偏食も減った。
もちろん英語も不自由なく話せるようになった。

そんな一見華やかそうで、実際は禅修行のようであった1年間のアメリカ生活の中でも、8ミリカメラだけはひとときも離さず、自分の目で見たアメリカを克明に記録した。
渡航前にバイトでためたお金でサウンドフィルム(音も画像も撮れる当時高価だったフィルム)を大量に買い込み、アメリカに持ち込んでいた。そして留学中の出来事をのべ6時間にもわたる映像で記録した。画と音で綴られた自分自身の貴重な青春の記録となった。

そして帰国。高校3年生。現実が待っていた。

つづく

このコラムの著者
8ミリカメラの達人 神山 隆彦
8ミリカメラの達人

神山 隆彦

小学5年生で8mm撮影デビュー。外国TV局の仕事を経て、現在は東京都で8mm機材を扱う会社を経営中。 [プロフィール詳細]



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