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8ミリカメラの達人 神山 隆彦

8ミリ映画って何?

掲載日:2006年4月17日 テーマ:趣味と教養 , カメラ , 家電

戦前のアマチュアも動く映像を記録したいという願い

戦前のアマチュアも動く映像を記録したいという願い

小生は現在、アジア地域で唯一の8ミリ映画の専門店を経営している。
「8ミリ」と聞いて「え? 8ミリビデオ?」と言われる方が多いが、残念ながら違う。そこで簡単に我々が扱う往年のフィルムを使った「8ミリ」の歴史から説明してみたいと思う。
今から111年前の明治28年、フランスのリュミエール兄弟が「映画」という物を発明し、世界で初めて動く映像を記録できるようになった。しかしそれは「劇場映画」であり、個人的な映像を残すものではなかった。もっとも撮影用のカメラもミカン箱大の手回しカメラであり、それを三脚にのせ、感度の低いフィルムのため照明をガンガンたいて撮影するという大がかりな物だったので、とても個人では扱えなかった。
しかし家庭の記録や子供の成長記録、旅行の思い出などを動く映像で残したいという強い思いは多かった。そしてついに大正時代に入り映画技術の進歩に伴って劇場用映画フィルム幅を約半分に裁断してコストパフォーマンスに優れた16ミリや9.5ミリといった方式が誕生し、さらに昭和7年にコダック社から、16ミリをさらに半分に裁断した「8ミリ」という方式が誕生した。
当時としては画期的であったが、価格的にまだ高価であったのと世界的に暗い時代に突入していったため、一部の裕福な層の趣味として使われた以外はあまり普及しなかった。

戦後の復興と8ミリ

戦後の復興と8ミリ

第二次世界大戦も終わり、ようやく明るい兆しが見え始めた昭和30年前半、第一次8ミリブームとも呼ばれる時代が訪れた。その背景にはテレビや映画などの映像系の娯楽が増え、一般の映像に対する興味が増したことや量生産・技術の進歩によるローコスト化があった。
ニコン、キヤノンなどすべてのカメラメーカーが一斉に8ミリカメラ・映写機市場に参入し、書店には専門誌が並び、日曜日の観光地はいたるところで8ミリを撮る人の姿が見られた。
現在40歳代以降の方であれば、両親が撮った子供の頃の8ミリフィルムが残っている方も多いだろう。しかしこの頃の8ミリは「ダブル8」と呼ばれる古い方式で、フィルムの装填(そうてん)が難しく、撮影もロールの片面を撮ってから残りを撮影するというややこしい物であった。もちろん音もとることはできなかった。
そのため次なる課題は、フィルムの装填(そうてん)が簡単で音も録れる8ミリの開発であった。

「私にも写せますぅ」第二次8ミリブーム、そして衰退へ

「私にも写せますぅ」第二次8ミリブーム、そして衰退へ

個人で動く映像を映すことのできる8ミリは当時としてはすごいことであったが、同時に大変手間のかかることであった。そんな中、昭和40年(1965年)その問題を解決すべく革命が起こった。フィルムの装填をカセット化し、ややこしいことをすべて自動化した新しい方式の「スーパー8」や「シングル-8」がコダックと富士から発売されたのである。富士のシングル8は扇千景さんを起用してTV-CMを打ち「私にも写せますぅ」というキャッチコピーと共に爆発的人気を集めた。また海外にも大量に輸出され高度経済成長期の一翼を担い、外貨獲得にも貢献した。それまで不可能であった音声の同時録音ができるカメラも発売され、まさに8ミリの黄金期が訪れた。しかしその黄金期を脅かす大物は静かに忍び寄ってきていた。「ビデオ」の登場である。ソニーからはベータ、ビクターからVHSが発表され、テレビを録画するだけではなくポータブルデッキで外に飛び出すことも可能になったのである。8ミリフィルムカメラに比べて、現像がいらず、すぐ見ることができ、音声も入り、長時間録画でき、ランニングコストが安いビデオに消費者はしだいに心を動かされ、8ミリフィルムカメラは衰退していった。すべて消え去ると思われた8ミリだが、90年代後半ごろから音楽用ビデオ(SMAP等)やTV-CMで8ミリが使われ始め、デジタル世代の新しい表現方法として注目され始めている。

このコラムの著者
8ミリカメラの達人 神山 隆彦
8ミリカメラの達人

神山 隆彦

小学5年生で8mm撮影デビュー。外国TV局の仕事を経て、現在は東京都で8mm機材を扱う会社を経営中。